THE BIG FOURとは? :THE BIG FOUR(スラッシュメタル四天王)来日祈願非公式サイト

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Anthrax, Megadeth, Metallica, Slayer... Big Four来日公演を祈願した非公式サイト。

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THE BIG FOUR と一口に言っても「四大なんたら」という意味しかないが、このサイトでは「スラッシュメタル四天王」のこと。

スラッシュメタルとはヘヴィメタルの一派でより激しさとスピードを追求した音楽形態。スラッシュメタルの"スラッシュ"は、"馬を鞭で叩く"の意味。80年代前半~中期にかけて、本格的に確立される。

80年代初頭、いろいろなスラッシュメタルバンドが乱立するなか、早くに頭角をあらわしたANTHRAX(アンスラックス)、MEGADETH(メガデス)、METALLICA(メタリカ)、SLAYER(スレイヤー)の4バンドをそのキャリアや実績から「スラッシュメタル四天王」=「THE BIG FOUR」と呼ぶ。

4バンドはデビュー当時こそスラッシュメタルという同一ジャンルに属していたが、各々違う音楽スタイルを確立していきながらバンドのキャリアを築いていったため、各バンドどうしが比較されることはあれど「スラッシュメタル四天王」という言葉は形骸化しつつあった。

さらに4バンドそれぞれ、バンドメンバーの解雇・共演にまつわる過去の確執やその音楽スタイルに対するメディア上での論戦といった問題を抱えており、そろっての共演は実現困難と思われていた。しかし、近年それぞれスラッシュに回帰したような力作を発表し改めて存在感を示したこともあって4バンド共演の機運が高まっていた。

そして、ついに2010年6月、Sonisphere Festivalで「THE BIG FOUR」の共演が実現したのである!

アンスラックス
クロスオーヴァーの先鞭をつけた
都会的自由派

メガデス
知性と狂気が融合した
インテリジェンス・メタル・バンド

メタリカ
攻撃的なサウンドでシーンをリードする
メタル・マスター

スレイヤー
破壊と蹂躙の限りを尽くす
暴虐メタルの帝王

THE BIG FOUR ライナーノーツ(クリックで表示)

2010年9月25日、26日、METALLICAは頂点に立つ“王者”の風格で観客を魅了し、その凄みで観客を煽動し、さいたまスーパーアリーナに巨大なエネルギーの磁場を作り出していった。結果的に、METALLICAが“再生”というテーマと向き合うことになった新作「DEATH MAGNETIC」からの楽曲と、ヘヴィ・メタルの歴史にその名を刻む名曲群の数々は、観客とのエネルギーの応酬というライヴの醍醐味を見せつけながら、新たな生命を得た躍動感を伴って、我々の身体を激しく揺さぶっていった。METALLICAというバンドの孤高性や、比類なき偉大さといったものを、改めて再認識させたコンサートだった。

実は今回のこのさいたまスーパーアリーナのライヴでは、5~6種類の異なるステージ・プロダクションの中から、野外フェスティヴァル用のステージが選ばれて使用されている。当初、ラウンドステージを日本に持ち込む予定にしていたが、照明やPAを吊り下げるには屋根の強度が足りないとプロモーター側から伝えられ、それならばと野外フェスティヴァル用のステージを運び込んだらしい。この公演を実際に御覧になった方は、目に焼き付けたそのショウの模様を思い出していただきたい。そして、本作「THE BIG FOUR」の映像を見れば「アッ!」と気が付くはずである。そう、今回の日本公演のステージは、「THE BIG FOUR」で使用されたものと全く同じセットだったのである。

「THE BIG FOUR」― スラッシュ・メタル四天王と言った方が、日本のファンには判り易いだろう。METALLICA、SLAYER、MEGADETH、そして、ANTHRAXという、ヘヴィ・メタルの黎明期に活躍し、時代の中央に踊り出ようとしていたヘヴィ・メタルという音楽の先鋭化にいち早く着手し、良質な細胞分裂への道筋を指し示した先頭集団の4組を、我々はスラッシュ・メタル四天王と呼んだ。

彼らの原点は1980年に爆発的なムーヴメントを確立させたニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル(NWOBHM)であり、そこに何%かのパンクからの影響を振りかければ、その音楽的基盤を透けて見えてくる。スラッシュ・メタル四天王を形成するミュージシャンは、NWOBHM勃興に貢献したミュージシャン達よりも5~6歳は年下であった。実はこの差は大きい。NWOBHMの先駆者はパンク/ニュー・ウェイヴと対峙していたが、四天王の世代はそれすらも呑み込んでいる。時代性、そして、世代。この時代の5~6歳の年齢差は、その音楽性に決定的な違いを生み出している。例えば、1970年代から活躍していたIRON MAIDENは、契約してほしければ髪を切れと言われたことがあった。しかし、四天王登場の頃にはこんな話は出てこない。つまり、NWOBHMと後に呼ばれるムーヴメントの先駆者と、四天王世代とでは、闘争すべきフィールドが大きく異なっていたのである。IRON MAIDENらが闘争の対象としていたのは、大仰に言えば伝統的に閉鎖的な音楽業界のシステムそのものであり、一方、四天王世代は既に確立されつつあったヘヴィ・メタル内での闘争であった。この異なる図式は重要な意味を持っている。何故ならば、抱えている音楽の成り立ちを雄弁に立証することになるからだ。

NWOBHMなくして、四天王世代なし。これは歴史的必然である。METALLICAの誕生にNWOBHMがいかに大きな影響を及ぼしているのかは、今さら説明するまでもない。MOTORHEADのファンクラブの会員であり、DIAMOND HEADの追っかけでメンバーの自宅に寝泊まりしていた経験を持つラーズ・ウルリッヒは、ジェイムズ・ヘットフィールドをNWOBHMに巻き込み、初期メンバーだったデイヴ・ムステインをANGEL WITCHの信奉者へと変貌させている。無名時代のMETALLICAがレパートリーの不足を補う意味でDIAMOND HEADや他のNWOBHMのバンドの楽曲をライヴで披露していたエピソードも有名である。そのリスペクトは1984年発表の12インチ・シングル「CREEPING DEATH」のB面、“GARAGE DAYS REVISITED”と題されたBLITZKRIEGの“Blitzkrieg”、DIAMOND HEADの“Am I Evil?”のカヴァーで具現化されている。また、そのラーズが監修したNWOBHMのコンピレーション・アルバム「'79 REVISITED」や、METALLICAの「GARAGE INC.」等、様々な局面でNWOBHMへの熱い想いを吐露している。

IRON MAIDENの衝撃的なデビューもまた、後続達に多大なインスピレーションを与えたことは明白である。1970年代のハード・ロックを聴いて育った若者達は、IRON MAIDENの独創的なスタイルの中にあるソリッドなスピード感や、変幻自在の楽曲の組み立て方、そして、重量感溢れるサウンドに、新しい時代の息吹きを感じ取った。早い時期からアメリカでツアーを行っていたRAVENや、ダークサイドをデフォルメさせたVENOM等からも、多くのバンドがヒントを得たことは間違いない。

METALLICAのデビュー・アルバム「KILL 'EM ALL」は1983年の発売、SLAYERの「SHOW NO MERCY」も1983年。ANTHRAXの「FISTFUL OF METAL」は1984年、MEGADETHの「KILLING IS MY BUSINESS...AND BUSINESS IS GOOD!」は1985年の発売である。

IRON MAIDENは1982年に傑作「THE NUMBER OF THE BEAST」を発表し、NWOBHMに端を発する現代ヘヴィ・メタルのスタイルやイメージそのものを確立させ、既に“時代のアイコン”と呼ばれる領域に到達しつつあった。つまり、後続組である四天王を含む世代は、そのスタイル/イメージをどのように継承し、発展させていくかに知恵を絞っていたということになる。これが前述のヘヴィ・メタル内の闘争運動である。そして、この闘争運動の中から後にスラッシュ・メタルと命名される先鋭的なサウンドを表現するバンド群が誕生する。

METALLICAと初めてインタヴューしたのは、1986年、彼らが「MASTER OF PUPPETS」発表後、オジー・オズボーンと全米をサーキットしていた時である。最初に顔を合わせたメンバーがクリフ・バートンだった。会場に横付けにしたツアー・バスの中でインタヴューは始まったが、最も印象深かったのは、ラーズが何度も「俺達はスラッシュ・メタル・バンドじゃない」と繰り返して発言していたことだ。

スピード・メタルと当初呼ばれていた音楽が、新たにスラッシュ・メタルと命名されるようになると、今度は世界中から同系のバンドが数多く蜂起し始めて、スラッシュ・メタルはヘヴィ・メタル内の一つのジャンルとして定着する。当時のラーズの発言を僕なりに解釈すれば、「バンドの出自が違う」という意味だったのではないかと思う。NWOBHMとそれ以前のハード・ロックを御手本として音楽の基盤を築き上げたバンドと、現代ヘヴィ・メタル定着後、スラッシュ・メタルの細胞分裂化に参戦したバンドとの違い。さらに付け加えるならば、既にジャンルとして内向きのエネルギーを放射し始めていたスラッシュ・メタルに対して、ラーズはMETALLICAの音楽が内包する広義性を指摘していたのかも知れない。そのラーズの発言は、1991年発表の「METALLICA」で結実する。

「THE BIG FOUR」のツアーの噂は何度も出ては消えていたが、METALLICAなくしてこの企画は成立せず、さらに、SLAYERのケリー・キングとMEGADETHのデイヴ・ムステインとの不仲や、ジェイムズとデイヴの確執といった問題が解消しないことには、この空前のパッケージ・ツアーは実現不可能だと思われていた。しかし、2009年6月にSLAYERとMEGADETHのダブル・ヘッドライナー・ツアーがカナダで実現したことで、「THE BIG FOUR」のツアーはいっきに実現化の方向性で進んでいく。「THE BIG FOUR」の興行収益が記録的なものになることは誰もが確信していたはずである。SLAYERとMEGADETHを組ませたプロモーター/エージェントの思惑は、当然、「THE BIG FOUR」の開催までを見越していたことになる。かくして、2010年夏、「THE BIG FOUR」のパッケージ・ツアーは、東ヨーロッパ中心の『SONISPHERE FESTIVAL』で開催されることがアナウンスされていく。

「THE BIG FOUR」の『SONISPHERE FESTIVAL』は合計7回行われている。

2010年6月16日 ポーランド・ワルシャワ
   6月18日 スイス・ヨンシュヴィル
   6月19日 チェコ・プラハ
   6月22日 ブルガリア・ソフィア
   6月24日 ギリシャ・アテネ
   6月26日 ルーマニア・ブカレスト
   6月27日 トルコ・イスタンブール

そして、本作はブルガリアはソフィアの『Vasil Levski Stadium』での模様が収録されている。
ラーズは「THE BIG FOUR」をこう振り返っている。
「まるで同窓会だ。高校時代の仲間と同窓会で再会するようなものさ。みんなに会えたこと、プレイ出来たことは楽しかった」と語り、こう付け加えている。
「俺達はビッグ4とひとまとめにして語られ、4バンドの間には競争心があると思われてきた。しかし、聴けば判るようにそれぞれが全く違うバンドとして歳月を経て成長してきた。まるで違うことをやりながら、それぞれの得意分野で一流の力を発揮している。ANTHRAXは外に向うアティチュードがあり威勢がいい。MEGADETHはメタル・バンドの中でもテクニカル面で群を抜いていて、その楽曲は巨大スタジアムを満杯にするオーディエンスにも受け入れられるクラシックと呼べるものだ。そして、SLAYERは派手で過激な音楽を演らせたら右に出る者がいない。そして、俺達。そうやって4つのバンドはそれぞれに異なる個性を放っており、それが強みなんだ。25~26年前にはお互いがそれほどの個性を持っていなかったかも知れない。しかし、年月を経てそれぞれが独自のユニークなバンドへと成熟を遂げたのさ。だからいろんな側面で楽しめるんだ」と。

本作にはボーナス映像としてバックステージの模様が収録されているが、ラーズが言うところの“同窓会”さながらのメンバーの交流が、このパッケージ・ツアーの成功を雄弁に物語っている。そして、劇的なシーンとして語り継がれるに違いない、全バンドが参加したジャム・セッションが、観客を熱狂させ、我々の胸を打つ。しかも、演奏した曲が、彼らの“出自”に結び付く、NWOBHMのDIAMOND HEADの“Am I Evil?”のカヴァーというのも泣かせる。史上初の試みが、空前の成功を収めたことで、この「THE BIG FOUR」が2011年以降に様々な地域で開催される可能性も出て来た。ぜひ日本もその中に組み込んでほしいと願わずにはいられない。


2010.10.5 伊藤政則/MASA ITO

THE BIG FOUR ライナーノーツより

ハード・ロック/ヘヴィ・メタルにみるパンク・ムーヴメントの"影"(クリックで表示)

1976年ごろ、ハード・ロック/ヘヴィ・メタルは一種の安定期にあった。英国ではレッド・ツェッペリンが怪物バンドとなり、リッチー・ブラックモアが抜けた(レインボーを結成)とはいえディープ・パープルも健在だったし、試行錯誤しながらブラック・サバスも頑張っていた。かたや米国ではエアロスミスとキッスの人気が昇りつめるばかりだった。そんな最中、パンク・ムーヴメントが起こる。

ハード・ロック/ヘヴィ・メタル・シーンに対してのパンク・ムーヴメントの影響は、広い米国ではそれほどでもなかったようだ。しかし、瞬時にして全国にファッションなどの風俗が広がる英国はパンク一色に塗りたくられたのである。すでに地位を確立していた古いバンドはともかく、新人のハード・ロック/ヘヴィ・メタル・バンドにとっては試練だったが、そんな逆境をバネに新たなサウンドで多くのバンドが次々と「俺たちのシーンを!」と立ち上がる。それが、70年代末にはじまるニューウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル(略称NWOBHM)だった。アイアン・メイデン、デフ・レパード、サクソンが代表である。

NWOBHMの特徴とは何か。一言でいえば音の簡素化である。従来のハード・ロック/ヘヴィ・メタルはブルース、ジャズ、クラシックなどの要素を含んでいた。しかしNWOBHMのバンドたちは極力そういったものを削ぎ落とす。それゆえ薄口な面もあったが、多くのバンドがスピード感、攻撃性、キャッチーな楽曲を浮き立たせることに成功した。パンクからの影響を否定していたバンドは少なくなかったが、ぼくは彼らにパンク・ムーヴメント通過の影を見る。ただし実際それらのバンドは70年代中盤から活動していたジューダス・プリーストやモーターヘッドらのアグレッシヴな音を特徴とするバンドたちにパンクの何倍も触発され、80年代初頭、彼らとともに英国のシーンを盛り上げた。ハード・ロックよりもヘヴィ・メタルという言葉のほうが主流となるのもこのころからだ。

当時の英国では、エアロスミスは停滞し、素顔になったキッスはヘヴィ・メタリックになり賛否両論を呼ぶ。しかし、その申し子のような新世代バンドが登場していた。80年代初頭から文字どおりシーンを彩ったLAメタル勢である。バンドとしてはクワイエット・ライオット、モトリー・クルー、ラット、ポイズンらがあげられ、派手なルックスとキャッチーな音楽性が幅広い層のファンに支持された。

一方、同時期に「ヤツらはメタルじゃない!」といわんばかりにLAメタルとは正反対のバンドが現れた。メタリカ、スレイヤー、メガデス、アンスラックスらのスラッシュ・メタル勢である。彼らの背景にはブラック・サバスやジューダス・プリースト、モーターヘッド、NWOBHMのバンドたちが大きな位置を占め、さらにパンク/ハードコアからのインスピレーションもあった。サウンドはより速く、より重く、より激しくなり、こうした音作りは80年代の後半以降さらに増していき、ガンズ・アンド・ローゼズらの登場へとつながっていくのである。

行川和彦

ロック・クロニクル vol.2 1975-1984 より